テーマ:キリスト教と文学 文学に表れたキリスト教−コナン・ドイルの場合             田中喜芳(客員研究員)  今日、コナン・ドイル(1859.5.22-1930.7.7)の名前が世界中に知れ渡っているのは、やはり、何といっても『ホームズ物語』の生みの親だからでありましょう。  『ホームズ物語』とは、ロンドンのベイカー街221Bに住む私立諮問探偵シャーロック・ホームズと相棒で事件の記録係でもあるワトスン医師の二人を主人公に、彼らが、依頼人が持ち込む難事件の数々を見事に解決するという探偵小説です。  ホームズの卓越した推理力と行動力で、快刀乱麻を断つごとく謎が次々と明かされていくさまは、読む者の胸を踊らせ、彼らと一緒に冒険の世界へと旅立たせてくれます。ガス灯に辻馬車、雑踏を行き交うシルクハットの紳士やボンネット帽の婦人たち、事件の発生を報せる電報や呼び鈴、ページをめくれば、そこはもう霧深いヴィクトリア朝のロンドンです。  冒頭で『ホームズ物語』と申し上げましたが、実際は、そのような作品(単行本)がある訳ではありません。長編4、短編56、合わせて60編のホームズ・シリーズを総称して、我われシャーロッキアン(シャーロック・ホームズのファン、研究者)は便宜的にそう呼んでいるのです。  シリーズ最初の作品《緋色の習作》(《緋色の研究》と訳されているものもあります)が、雑誌『ビートンのクリスマス年刊』に発表されたのが1887年。以来、110余年を経た現在、『ホームズ物語』は世界で180以上の言語に翻訳され『聖書』に次ぐベストセラーと言われるようになりました。 ドイルは生涯に全部で約230編、単行本に換算すると90冊の著作を書いております。それらの作品をおおまかに分類すると、@『シャーロック・ホームズ・シリーズ』に代表される探偵小説 A『マイカ・クラーク』『白衣の騎士団』のような歴史小説 B『マラコット深海』『失われた世界』などの空想科学小説 C『クロクスリの王者』『ファルコンブリッジ公爵』のようなボクシング小説 D『大空の恐怖』『新しい地下墓地』のようなホラー小説 E『心霊術の歴史』『コナン・ドイルの心霊ミステリ』に代表される心霊術関係のノン・フィクションやフィクション F『ボーア戦争』をはじめとする政府の政策宣伝著作類G本日の題材の一つに取り上げている『スターク・マンローからの手紙』や、『コナン・ドイルのドクトル夜話』のような医学小説 そして、H戯曲ほか、の九つの分野に分けることができるのではないかと思います。  このように、この分類を見るだけでも、ドイルは非常に多岐にわたるジャンルの作品を著しているわけですから、一口に「探偵小説作家」として片付けてしまうのは、私は間違いであると考えています。  『ホームズ物語』に話をもどします。ドイルが《緋色の習作》を書いたとき、彼は28歳で、ポーツマス市で全科を診る開業医をしておりました。そして、シリーズ最後の作品となる《ショスコム・オールド・プレース》を書いたのが亡くなる3年前の1927年のことですから、ドイルは、じつに40年の長きにわたって『ホームズ物語』を書き続けたことになります。  一人の作家が40年もの長い間、同じ主人公が活躍するシリーズを書いた例は、私は、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズと大佛次郎の鞍馬天狗シリーズ以外に知りません。  本日は「キリスト教と文学」というテーマのもと、『ホームズ物語』ともう一つ、ドイルが1895年に発表した自伝的色彩の濃い小説『スターク・マンローからの手紙』の2作品を題材に、これらの中に、どのような形でキリスト教が表れているかを中心にお話しするとともに、あわせて、ドイルの生涯と『ホームズ物語』の全体像についても、簡単にふれる予定です。  まず、ドイルの生涯を、キリスト教との関係で見てみましょう。現在、世界中の研究家の間で言われている定説は次のようなものです。「ドイルは、敬虔なカトリック教徒の家庭に生まれ、神学校で厳格なカトリック教育を受けたが聖職にはつかなかった。エジンバラ大学医学部を卒業した22歳のとき、カトリックの信仰をすてると以後は不可知論者となり、晩年は熱心な心霊主義の信奉者となった。彼は『ホームズ物語』で得た莫大な印税を心霊術の普及のために注ぎ込み、ヨーロッパはもとよりアメリカやオーストラリアにまで講演旅行に出掛けたので、福音の大伝道者パウロにちなんで心霊主義者の間では‘スピリッチュアリズムのパウロ’と呼ばれている」というものです。 はたして、これはドイルの信仰に関して本当の姿を言い表わしているのでしょうか。私はこの定説に以前から疑問を抱いておりました。というのは、彼は確かにカトリックの信仰をすてると公言してはおりますが、本当のところは、一生の間カトリックの信仰をすて切れなかったのではないかというのが、私がこれまでの研究で得た結論です。 そこで、本日は2時間という短い時間でもあるので、次の4点にポイントを絞って話を進めたいと思います。その4点とは、@ドイルがカトリックの信仰をすてた理由は何か A『ホームズ物語』と『スターク・マンローからの手紙』に表れたキリスト教 Bドイルが試みた心霊主義とキリスト教の融合 Cドイルは本当にカトリックの信仰をすて切れたのか改めて検討する、というものです。 ドイルがカトリックの信仰をすてた理由については、これまでいろいろと言われてきました。しかし、私は、彼が1895年に発表した自伝的小説『スターク・マンローからの手紙』の中にその謎を解く鍵があると考えています。じつは、この作品の中で、主人公マンロー医師(=ドイル)に、ドイルはアメリカへ帰った学友に宛てた手紙というかたちで、こんなことを書かせているのです。やや長くなりますが、当時のドイルの心境をよく表しているので引用させていただきます。  「きのうはぼくの誕生日だった。ぼくはこれで満22歳になった。(中略)多くの宗教の教典も読んでみた。しかし、その結果、どうしてこんな独断説が受け入れられるのだろうかと、ぼくは非常に驚かされるばかりだった。これらの宗教の倫理はたいてい優れたものだ。英国の習慣法だってそうだ。だが、倫理の根底になっている創造説に至ってはどうだ。あれほど、有能な人間たち、深遠な哲学者や機敏な法律家、そして、頭のよい社会人たちが、こんなくだらない生命説を信じているという事実ほど、まだ短いぼくの人生で、ぼくを驚かせたものはなかった。だが、これら多数の賛同者の前で、ぼくの貧弱でちっぽけな意見などは、心の奥底にでも留めておくより仕方がないだろう」というものです。  さらに、私は、ドイルがカトリックをすてた理由には、当時の時代背景とドイルの個人的な事情があると考えています。例えば、19世紀にはダーウィンの『種の起源』が出版され、人間も、他の生物と同様に環境に適応できた者だけが生き残って進化したという説が発表されました。その他にも、それまでの常識を覆すような書物が次々と出版されたこともあって、ヴィクトリア朝はキリスト教的な世界観が徐々に崩れ始めた時代でした。 一方、ドイルの家庭内に目を移せば、父親はアルコール依存症からうつ病になり精神病院に入院、母親は、家計の足しにと置いた下宿人と不倫をするという、ドイルにとっては経済的にも精神的にも非常に苦しい時代であったことが分かります。 時代の大きな変革の中で、科学知識の最先端を学ぶ医学部に入学したことや、親戚は皆、裕福に暮らしているのに、自分の家庭だけが不幸だという、いわば「神も仏もあるものか」という神をのろう気持ち。これらのことが複雑にからみあった結果、若者特有の熱病のような動機が発端にあってドイルがカトリックの信仰をすてたのだと、私は考えています。  次に、本日のメイン・テーマである「文学に表われたキリスト教」の話に入りたいと思います。『ホームズ物語』をよく読むと、この中には、決別したはずのキリスト教へドイルが無意識のうちに戻っている様子が随所にうかがわれるのです。その一つが『聖書』から聖句の引用です。  ドイルの分身であるホームズとワトスン医師のうち、ドイルの現実的な思考と行動を表しているのはワトスンの方です。ワトスンの言動にはキリスト教の香気が感じられませんが、ホームズは、しばしば、その場に合った適切な聖句を言葉の合間にはさんでいて、敬虔なクリスチャンの片鱗が感じられるのです。例えば、こんな具合です。  《緋色の習作》(1887年発表)では旧約聖書の「コヘレトの言葉」から「太陽の下、新しいものは何ひとつない」(第1章9節)を引用しておりますし、《バスカヴィル家の犬》(1902)では「マタイによる福音書」から「その日の苦労は、その日だけで十分である」(第6章34節)、また《恐怖の谷》(1915)と《ウィステリア荘》(1908)の事件では「ルカによる福音書」から、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(第21章19節)と言っています。  《高名な依頼人》(1925)では「ローマの信徒への手紙」から「罪が支払う報酬は死」(第6章23節)を、また、《スリー・ゲイブルズ(三破風館)》(1926)では「イザヤ書」から「折れかけの葦の杖」(36章6節)を引用しているといった具合です。  聖句を引用しているのは、何も善人であるホームズだけに留まりません。『ホームズ物語』には1063人の人物が登場しますが(私が数えたものです)、この中には当然悪人もおります。  英国には「悪魔も自分の目的のためには『聖書』から引用する」という格言があるそうですが、例えば、《瀕死の探偵》(1913)事件でホームズを殺害しようとしたカルバートン・スミスは「ローマの信徒への手紙」(12章20節)から「燃える炭火(を彼の頭に積む)」の聖句を引用しています。 スミスの他にも、《緋色の習作》に出てくる極悪人イノック・J・ドレッバーや、《恐怖の谷》で、まちを恐怖で支配したジョン・マギンティも『聖書』の言葉を引用しております。  シリーズ22番目の事件《背の曲がった男》(1893)の中で、ホームズはワトスンに向かって、こんなことを言っております。  「ウリアとバト・シェバの物語を覚えているだろう。ぼくの『聖書』の知識はいささか、錆ついてしまったが、たしか『サムエル記上』か『下』を見てみたまえ」というものです。  これは、《背の曲がった男》の事件が解決した後、その事件を振り返ってホームズがワトスンに言う場面です。この物語は、ある英国陸軍大佐の急死から事件が始まります。じつは、この大佐は戦地で友だちを敵に売り、その友だちの恋人をだまして妻とし、軍隊で出世街道を歩んできたという男でした。  ある夜、突然、敵の拷問で背中の曲がった、その男が30年ぶりに大佐の前に現われます。そして、男の口から真実を知った夫人が、その男とともに大佐を罵ったので、良心の呵責に耐えかねて大佐が死んだということがホームズの調べでわかるのです。物語の中で夫人は大佐に向かって一言「デイヴィッド」と言って彼を非難します。  大佐のフルネームはジェームズ・バークレイといいます。それならば、何故、夫人は夫を「デイヴィッド」と呼んだのでしょうか。じつは「デイヴィッド」は英語読みで、『聖書』では「ダビデ」となります。ホームズの言ったように「サムエル記下」の11章(1-27節)には次のような話が出て参ります。  この話は、ダビデ王と部下の戦士ウリア、およびウリアの妻バト・シェバが主な登場人物です。ダビデ王はバト・シェバを誘惑し、あげくの果てにウリアを敵の中に孤立させて殺してしまうというものです。  30年前に、かつての恋人の身に降り掛かった悲劇の真相を初めて知った大佐夫人は、ジェームズ・バークレイ大佐をダビデ王と同じ極悪非道な男だという意味を込めて、英語風に「デイヴィッド」と言って大佐を責めたのでした。  この作品のプロットは今申し上げた通りですが、私は、神学校で学び『聖書』の知識が豊富であったドイルが、ダビデ王の話を下敷きにして《背の曲がった男》を書いたというのが、案外真相ではないかと考えています。  シャーロッキアンでクリスチャンの清水武彦氏によれば、ホームズの言葉に『聖書』の思想がもっとも色濃く反映されているのは、48番目の事件《最後の挨拶》(1917)とのことです。  この物語は、第1次世界大戦勃発前夜である1914年8月2日が事件の発生日になっています。物語の最後の場面で、ドイツのスパイであるフォン・ボルクを捕まえたホームズが、エセックスの白亜の断崖の上で、月光に輝く海を見ながらワトスンに向かってこんなことを言うのです。  「東の風になるね」。これを聞いたワトスンは、「そんなことはないだろう。ひどく暖かいもの」と答えております。この一言をもってしても、ワトスンにはキリスト教的な雰囲気が感じられないことが分かります。続けてホームは「東の風が吹き出したね。かつて、一度として、英国に吹き寄せたことがないような風がね。(中略)この風の吹きまくる中で我々の多くが亡くなっていくかも知れない。しかし、それもまた、神の御心になる風なのだ。そして、嵐が過ぎ去った後、燦然と輝く陽光の中には、もっと清らかで、もっと気持ちのよい、もっと強い国が残っているに違いない」と言っております。  この言葉は、英国の将来についての、ある意味で厳しい予言ともとれるものです。皆さん、もうお気づきのように、この状況と内容は「ダニエル書」第7章に書かれております「四頭の獣の幻」と驚くほどよく似ているのです。  「ダニエル書」においては「夜の幻のうちに、風が大海を波立たせると、四頭の獣が現われ多くのものをかみ砕いた。しかし、この破壊の後に、神から永遠の王権を授かった国は、とこしえに滅びることはない」との予言が書かれているのです。なお「東風(こち)」とは、「ヨブ記」(第27章)では神の裁きの風を意味しています。  聖句は出て参りませんが、『聖書』という言葉は『ホームズ物語』に7回登場します。それらの場面を簡単に紹介すれば、《花婿失跡事件》(1891)では、婚約者が心変わりしないよう『聖書』に手を置かせて誓わせておりますし、《グロリア・スコット号》(1893)に登場する怪しげな少佐、プレンダーガストは「『聖書』にキスしてお礼を言いたい気持ちになるんでさあ」という喋り方をする人物として描かれております。  ロンドンのクリスマスが事件の背景になっている《青いガーネット》(1892)では、宝石を盗んだ犯人ライダが「もう二度としません」と、これも『聖書』に手をかけて誓いホームズに慈悲を乞うております。長編《恐怖の谷》では、ポーロックからの暗号を解く鍵となる数字は『聖書』のページを表しているのではないかとワトスンが推理しましたが、これは間違っておりました。  《四つの署名》(1890)でスモールは、ぜったいにショルトー少佐を殺していないと、これも『聖書』に誓っておりますし、《バスカヴィル家の犬》では、伝説を記した古文書の中に「三代、四代を過ぎてなお、罪なき者を罰することはないと『聖書』にあるから、神様の深い慈悲を頼みなさい」という一節があります。やはり、同作品の中で、ホームズは「ぼくの『聖書』の知識はいささか錆ついてしまった」という台詞も出て参ります。  このように『ホームズ物語』には『聖書』という言葉が7回登場するほか「キリスト教」3回、「キリストの十字架」が1回、「カトリック教」「カトリックの信者」「カトリック教会」という言葉が、それぞれ1回登場します。  本日のお話で、数多い作家の中で私がコナン・ドイルを選んだ理由の一つは「キリスト教が日常生活に結びついている国、英国の作家だから」というものです。もう一つの理由は、正直に言えば、こちらの方が主なのですが次のようなものです。 それは、私自身が日本シャーロック・ホームズ・クラブ(JSHC)や、米国ベイカー・ストリート・イレギュラーズ(BSI)、ロンドン・ホームズ会など世界34のホームズ研究団体に会員や名誉会員として在籍する熱烈シャーロッキアンで、ドイルに関する資料、例えばドイルの自筆の手紙類をはじめ各種の文献も所有しているので、研究がまとめ易かったというものです。ちなみに、私の博士号(Ph.D.)の学位請求論文のテーマは『コナン・ドイルの性格−病跡学的視点からの分析を中心にして』というもので、コナン・ドイルの研究で博士号(人間行動学)を取得したのは、世界のシャーロッキアンで私一人ではないかと自負しています。 英国におけるキリスト教を語るうえで、英国国教会の存在にふれないわけには参りません。実際、『ホームズ物語』にも「大聖堂」(1回)、「教会」(11回)、「教区」(8回)、「牧師」(11回)といった言葉が随所に見られます。  19世紀の英国国教会の体制は、カンタベリーとヨークの二大主教のもとカテドラルを中心とする43の主教管区を置き、その下に、牧師のいる1万余の教区を配置して行政権までを握っていたといわれます。このことは『スターク・マンローからの手紙』にも描かれています。  主人公の医師マンロー(=ドイル自身のこと)がバーチェスプール市で医院を開業すると、早速、通りの向かい側にある「高教会派の教区教会の牧師」が教会の礼拝に出席するようにと誘いに来るのです。マンローは「私は帽子の下に、いつも教会をもち歩いている」、つまり、自分の理性に従うと言って、この牧師を怒らせてしまうのですが、そのマンローが米国の友人へ宛てた手紙の中で、こんなことを書いています。  「ぼくは正直に言うと、未だかつて無神論者の立場というものが分からない。本当のところは無神論者がいること自体が信じられないのだ」「どんな人間でも、自然を細かく観察すれば、その、神の知性と力が示されている創造物に法則が働いているのを否定できないだろう」というものです。皆さん、どう思われますか。これが、カトリックの信仰をすてた人間が書く文章でしょうか。  最後に「ドイルが試みたキリスト教と心霊主義の融合」にふれて、本日のお話を終わりたいと思います。一般的には、ドイルが心霊主義者になったのは、第1次世界大戦が原因で最愛の息子や実弟を相次いで亡くしたため、霊界にいる彼らと交信したかったからだといわれています。しかし、実際はまったく異なります。ドイルは、かなり早い時期から心霊主義に興味を持っていたのでした。 1882年、ちょうど、ドイルが医学部を卒業した頃、米国で勃発した心霊主義の波が英国でも第一級の知識人を巻き込んで一種の社会現象にまで発展しておりました。この事実はドイルの耳にも入っておりましたが、当時のドイルは、詐欺的な行為を行った霊媒が摘発されたときも「まともな人間が、何故、あんなものを信じるのか不思議に思ったほどだった」と書いております。  詳しい経過は割愛させていただきますが、ドイルがポーツマス市で開業医をしていたとき、彼は、同じポーツマスの住人であるアルフレッド・ドレイスン将軍と知り合います。その将軍こそ、まさに英国における心霊主義の草分けだったのです。 将軍からいろいろ聞くうち、ドイルは本格的に心霊術に取り組むようになります。交霊会にも参加するようになり、その様子を彼らの会報『ライト』(1888)に発表して、自分は心霊主義者だとはっきり書いています。  ドイルは医学部学生のとき、公にはカトリックの信仰をすてたことになっていますが、実際は完全に信仰をすて切れなかったと言えます。理由の一つは、これまで述べてきたように『ホームズ物語』の中に、数多くのキリスト教関係の記述が見られること、そして、もう一つの理由は、晩年、ドイルが『聖書』に書かれた種々の現象を、キリストが起こした奇跡ではなく心霊現象の面から捕らえることで、『聖書』の正当性を擁護する論陣を展開したことです。  ドイルは、新約聖書における「現象(しるし)」や「不思議な業」は、近代心霊主義における室内実験で起こる心霊現象と驚くほど似ていると主張しました。そして、例として「ペンテコステ」(使徒言行録 第2章)をあげたのでした。  「五旬際の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」という箇所です。  ドイルは「一つの場所」に「心を一つ」にして集まるのは降霊実験の際には欠かせない条件だと主張し、具体例としてクルックスが行った実験をあげています。さらに「心霊主義はキリスト教に取って代わろうとするものではなく、キリストの言動について語り継がれてきたものが正確だということを心霊学が証明した」と言って『聖書』の正当性を擁護しているのです。  このことからも、ドイルがカトリックの信仰をすて切れなかったのが分かろうというものです。 ドイルは、キリスト教の道徳感では第1次世界大戦を回避できなかったではないかと、キリスト教を非難しております。しかし、これは、自分の最愛の弟や息子の命を奪った「第1次世界大戦」に対する、やり場のない怒りに加え、自分がカトリックの信仰をすてたという事実を正当化したかったためでありましょう。  本日は「文学に表れたキリスト教−コナン・ドイルの場合」と題してお話させていただきました。私自身、文学に表れたキリスト教の研究はまだ始めたばかりですし、また、知る限りでは、この種の研究はこれまでほとんど行われてこなかったように思います。今後もさらに広範囲な作家の作品について研究を重ね、いずれまた、皆さんにご報告できればと考えています。  今、私は、従来から続けてきた研究を学問の一分野として確立したいと奮闘中です。何かと言えば、「文学作品」と専門である「人間行動学」を結びつけ、作家がその作品を書いたときの私生活から深層心理を分析し、作家の性格までを明らかにすることです。そして、最終目標は作家の性格と作品の傾向を系統だてることを考えています。 本日は、長時間にわたり、ご清聴いただき心から感謝します。誠にありがとうございました。 (たなか きよし:ニューポート国際大学大学院教授/人間行動学博士Ph.D.)     (題字と本文で:22字×436行=9592字)       (指定:40字×40行×6枚=9600字)